石原紗良の働くアルバイト先にはお気に入りの彼がいる。いつも窓際のカウンター席に座って、店の名物であるチャーシュー麺を注文し、運ばれてくるまでのあいだ静かに文庫本を読む一人の男性。 くしゃっと乱れた髪はくせ毛なのだろうか、少しハネているけれど、それが逆にあか抜けていておしゃれ。背は高くて半袖のシャツから覗く腕はほどよく筋肉質できゅっとしまっている。文庫本に落とした視線は伏せがちで、意外と睫毛が長い。男性なのに綺麗だなとついついそちらに視線をやってしまう紗良は、完全に彼のファンになっている。土日の夜だけこの店でアルバイトする紗良にとって、土曜日の夜に来てくれる彼は目の潤いであり癒しだ。(まあ、私が勝手に拝んで癒されているだけなのだけど。でも忙しい日々にそういう潤いは必要よね)世の中にはかっこいい人が存在するのだなと、紗良は彼を見るたびに思った。疲れた体に活力を与えてくれる彼はこの店の常連客だ。紗良が彼の座っていた席の片付けに入ったとき、一冊の文庫本が忘れられていることに気付いた。「店長、お客様の忘れ物届けてきます」彼はさっき店を出たばかり。追いかければまだ駐車場にいるかもしれないと店を飛び出したわけなのだけど、彼の姿はどこにも見えず。「あー、もう帰っちゃったかなぁ」半ばあきらめ状態で念のため駐車場をぐるりと一周してみると、ラーメン店の隣にあるコンビニから出てくる彼を発見した。少し遠目からでも分かるバランスの取れたシルエットは紗良の推しの彼に違いない。「すみませーん!」手を振りながらバタバタと駆け寄ると、彼は不思議そうな顔をして首を傾げた。「ん? 俺?」「そうです、お客様です。本、お忘れですよ」紗良が本を掲げると、彼は「あっ!」と短い声を上げた。クールに本を読んでいるか静かにチャーシュー麺を食べている顔しか知らない紗良は、初めて見る彼の表情に新鮮さを覚えて心臓がドキリと高鳴った。「すみません、うっかりしていました」声も初めて聞く。少し低くて、でも優しい声。彼の声が聞けるなんて今日はラッキーデーだ。「いえいえ、間に合ってよかったです。では――」「あのっ」ペコリとお辞儀をして戻ろうとしたところを呼び止められ、今度は紗良が首を傾げる。「はい?」「あー、えっと、またラーメン食べに行きます」「はいっ!ぜひまたいらしてく
明日への活力など寝て起きればもうリセットされているわけで――。紗良は五時半の目覚ましでむくりと起き上がった。身支度を整えながら、夜のうちにタイマーをかけておいた洗濯物をベランダに干す。それが終われば朝食の準備にとりかかるが、朝からあれこれ作る余裕はないため今日はピザトーストだ。オーブントースターで焼いていると紗良の母が起きてきて、あとを母に任せて紗良は寝室へ。「海斗、起きなさーい。朝だよー」寝相悪く布団から半分飛び出しながらもまだぐーすか寝ている海斗を揺り起こす。「……うーん」どこでそんな技を覚えてきたのだろうか、ごろんと寝返りを打ちながら器用に布団に丸まる海斗。「保育園遅刻するよー」容赦なくぺりっと布団を剥がし、寝ぼけ眼の海斗を着替えさせる。抱っこでダイニングまで運び、焼き上がったピザトーストを食べさせつつ紗良も急いで胃に流し込んだ。「今日は午後から雨みたいよ。傘持っていきなさいね」朝の情報番組のお天気コーナーを見ていた母がのんびりとお茶を飲みながらそんな事を言い、紗良はそれを頭の片隅に置いておきながら海斗の身支度を整える。「ほら、海斗行くよ」「おばーちゃん、いってきまーす」「はいはい、いってらっしゃい。ほら、紗良、傘忘れてる」「あっごめん、ありがとう」自分のカバンに傘に、海斗の保育園の着替え一式。軽自動車の助手席に雑に起き、海斗を後部座席へ乗せた。保育園までは車で五分ほどだ。近いけれど、海斗を車へ乗せたり降ろしたりする動作は意外と時間がかかる。四歳児だがまだまだ一筋縄ではいかないことが多い。保育園の門が開くと同時に海斗を預け、紗良は急いで職場へ向かう。朝の時間帯は交通量が多く、渋滞になりそうな道を時間と戦いながら安全運転で進み、職場の駐車場から執務ビルまではダッシュだ。そうして始業時間ギリギリに席に座り、汗だくのまま仕事が始まる。これが紗良の毎朝の風景だ。
「おはよう、紗良ちゃん」「依美ちゃん、おはよう~」ぐったりと席に座った紗良に声をかけてきた同僚、岡本依美は紗良と同じ派遣社員で一年先輩になる。「毎朝お疲れ様だねぇ」「今日は道が混んでたの。遅刻するかと思ったよ」「それで走ってきたの? 汗だくじゃん。あとで化粧直ししてきなね」「うっ……そうする」直すほどの化粧はしていないけれど、と思いつつもよほどひどい顔をしているのだろうか、思わずため息が漏れてしまう。「ところでさ、来週飲み会あるんだけど、どう?」「飲み会かぁ」「たまには参加しなよ。子供、お母さん見てくれるんでしょ?」「まあねぇ。うーん、でもやめとくよ。お迎えもあるし、その後で行くのはキツイ」「お迎えもお母さんにお願いできないの?」「それがお母さん運転免許持ってないのよ」「そうなの? そりゃ大変だ」「でしょう?」始業開始からそんな不真面目な会話を繰り広げられるほど社内環境はいい。紗良はここで派遣社員として八時半から十七時半まで事務仕事をしている。働き始めて早二年。時短勤務はできないものの、子育てしながら働くことを理解してもらえているありがたい職場だ。とはいえ、やはり子供を育てる上でいろいろと制約はあるわけで――。
十七時半のチャイムと同時にパソコンをシャットダウンし、「お疲れ様です」と告げて足早に会社を出る。夕方の渋滞をくぐり抜け保育園へ海斗を迎えに行き、ようやく家に帰ると十八時半近く。夕飯は母が用意してくれることが多くて、それはとてもありがたく助かっているのだが……。「海斗お風呂入るよー。って、寝てる?」洗い物をしている間に、大人しくテレビを見ていた海斗はいつの間にか床にゴロンと寝転がり、すやすやと寝息を立てていた。「もー、仕方ないなぁ」こんなことは日常茶飯事だ。初めは戸惑ったり、抱っこしただけで筋肉痛になったりしたけれど、最近はもう慣れっこになった。イライラすることも少なくなり、仕方がないで済まされる。寝室の布団を雑に敷いて、海斗を担いで運ぶ。その間もまったく起きない海斗は、きっと朝まで爆睡だろう。「最近暑いから、海ちゃんも疲れてるのねぇ」「汗かいてるからお風呂には入れたかったけど。朝シャワーでもさせるか」「一日お風呂入らなくったって死にやしないわよ。紗良だって子供の時はお風呂に入らずよく寝ちゃってたわ」「子供あるあるなのね?」そういうことも、ようやく慣れてきたというかわかってきたというか。紗良なりに理解できてきた事柄だ。
紗良は海斗の叔母にあたる。今から二年前、海斗が二歳のとき、海斗の家族は交通事故に巻き込まれて亡くなった。海斗も事故に巻き込まれたけれど奇跡的に助かって、けれど海斗はひとりぼっち。海斗の母親の実家――、つまり紗良の母は、早くに離婚して一人で暮らしており持病持ち。父親の実家は遠く離れているし両親は高齢。そのため海斗を育てる環境がなく必然的に施設へ預けるように話は進んでいったのだが。まるで邪魔者扱いのように話される会話が紗良にはどうしても納得できなかった。紗良の姉はよく海斗を連れて実家に遊びに来ていたため紗良とも日ごろからよく交流があったし、海斗も紗良に懐いていた。だから紗良はその場の勢いと怒りで「私が育てます」と引き取って、今に至る。紗良の考えが浅はかだったことは否めない。一人で初めての子育てはあまりにも無謀すぎたけれど、紗良の気持ちを汲み取った母が一緒に育てると協力を申し出てくれたおかげで、今はどうにかこうにか暮らしていけている。紗良が子供の頃に両親は離婚していて、さらに母は数年前に脳梗塞を患っている。そのため持っていた運転免許も返納済みで定期的に通院もしているからあまり母には負担をかけさせられない。とはいえ、子育て未経験、ましてや出産未経験の紗良にとって、海斗の子育ては未知との連続だった。母がいなかったらとっくに音を上げていたに違いなかった。「明日はプール教室だから、お昼は外で食べてくるね」「わかったわ。海ちゃんプール楽しそうね」「お友達と行ってるから楽しいみたいよ」保育園で知り合ったママ友から誘われて、海斗は四月からプール教室に通い始めた。年中から通えるプール教室はまだほとんど水遊び程度。けれど楽しそうにしている姿を見ると、やらせてあげてよかったなと紗良は嬉しくなる。一通りの家事を終え明日の準備を整えて、ようやく紗良も寝室へ入った。隣でぐーすか寝ている海斗の寝顔はやっぱり可愛い。自分の子供ではないけれど、もう二年も一緒に生活しているのだ、可愛くてたまらない存在には違いない。海斗の寝息を聞きながら、紗良もすぐに眠りに落ちた。
翌日のプール教室は午前十時半から。保育園で知り合ったママ友の弓香と観覧席でおしゃべりをしながら、紗良は子供たちの様子を見学していた。弓香は紗良よりも十歳も年上で、子どもは二人。上のお姉ちゃんはもう小学校六年生という子育ての大先輩だ。紗良と弓香は保育園の送り迎えの時間が同じで、挨拶を交わすうちに仲良くなった。歳の差なんて気にしちゃだめよとフレンドリーに接してくれる弓香のおかげで、頼りになるありがたい存在だ。「海ちゃん順調だね。もー、うちなんてまだまだ顔付けがダメでさー」「ありがたいことに、先生とも相性いいみたいで」「滝本先生ね! あの人、格好いいわよね。体引き締まっててさ、ありゃ絶対プロテイン飲んでるわ」「弓香さん、プロテインって」「うちの旦那もああいう締まった体にならないかしら。もうお腹がボヨンボヨンなのよ~」「あはは! 旦那さんが聞いたら泣いちゃうかもよ」弓香のジェスチャーに、紗良はボヨンボヨンの弓香の夫を想像してクスクスと笑う。プール教室の先生はみな水泳キャップを被っているため、かっこいいと言われても紗良には正直顔の違いがよくわからない。いつも海斗ばかり見ているためあまり先生の顔を見ていないというのもあるけれど。「先生ってどれも同じ顔に見えない?」「紗良ちゃん、よく見てよ。全然違うって」「うーん」弓香に言われ改めて先生の顔を観察してみる。と、海斗のクラスの担当である滝本先生は他の先生に比べて確かに綺麗な顔をしているような気がする。それに男性らしく大きな背中に引き締まった手足。あれはプロテインのおかげなのか、はたまた普通の男性はみんなあんな感じなのか、紗良にはさっぱりわからない。ただ、ほんの少し、かっこいいかもと思ってしまったことも事実で。今までそんな目で先生を見ていなかった紗良は、急に心臓が変な音を立てて騒ぎ出す。(違う違う、そういうことじゃなくて)慌てて目線を海斗に戻し心を落ち着けていると、弓香がカラカラと笑いながら耳打ちする。「でも私は滝本先生より小野先生の方が好みかな」「もー、そんなことばっかり言って、旦那さんが怒るよ~」「あっはっはっ! 内緒ね~」悪びれることもなく明るく笑う弓香につられて、紗良も一緒になって笑い転げた。だけどこっそりと、(私は小野先生よりも滝本先生の方が好みかな)なんて思ったりもし
「今日はパパが迎えに来てるから」「また保育園でねー」プール教室の出入口で弓香と別れ、紗良は海斗と手を繋いだ。「さて、海斗、今日はご飯食べて帰ろっか」「おそとでごはん? やったー!」「さーて、何食べに行こうかなー?」「かいとねぇ、ポテト! ポテトたべたい!」ファストフードかショッピングセンターのフードコートでも行こうかと思考を巡らせていると、『海斗くん』と背後から呼ぶ声が聞こえ振り向いた。「水着忘れてるよー!」「あっ、せんせー!」海斗の水着を掲げながら走ってきた『先生』は、プール教室のユニフォームであるTシャツと短パンを履いていて、髪はしっとりと濡れている。海斗は紗良の手を振りほどき先生へと駆け寄った。慌ててプールバックの中身を確認すると、確かに水着が入っていない。「わ~、すみませんでした。ありがとうございます」紗良も急いで駆け寄るが、先生に妙な既視感を覚えしばし頭がバグる。先生も紗良を見て固まり――。しばしの沈黙の後、紗良と先生は声を揃えて叫んでいた。「あっ! 常連さん?」「店員さん?」お互い驚きのあまりまた声を失う。先に口を開いたのは滝本先生の方だった。「海斗くんのお母さんだったんですね」「私も、常連さんが海斗の先生だとは知りませんでした」まさかの顔見知りで変に緊張するというか恥ずかしいというか。お互いぎこちなく愛想笑いしかできない。「かいとねぇ、いまからごはん、たべにいくんだー!」「おー! いいなぁ。いっぱい食べてこいよー」滝本先生は海斗の頭を優しく撫で、バイバイと手を振った。それに合わせて紗良もペコリとお辞儀をし、海斗と共にその場を後にする。「さらねえちゃん、ポテトポテト~」「あー、はいはい、ちょっと待ってよ」ファストフード店で海斗のリクエストであるポテトを注文し、ハンバーガーや飲み物をシェアしながら、紗良は先ほどのことを思い出していた。(本当にびっくりした。まさかラーメン店の常連さんが、海斗のプール教室の先生だったなんて、まったく気づかなかったなぁ)水泳キャップを被るだけで雰囲気がガラリと変わる。常連として見ていたときは綺麗な顔の人だなと思っていたけれど、プール教室の先生として見たときはまた違ったかっこよさだった。半袖シャツから見えていた引き締まった腕は、そういうことだったのかと妙に納得
海斗の母親――紗良が、滝本杏介《たきもときょうすけ》の行きつけのラーメン店の店員だと判明してからというもの、二人は店で顔を合わせるたびに一言二言しゃべるようになった。スポーツクラブで働く杏介は、たいてい土曜の仕事終わりに仕事場近くのラーメン店で食事をして帰ることがルーティンになっている。 ほどよく汗をかいたあとのラーメンは格別に旨い。疲れた体に塩分を補給してくれるし、炭水化物が疲労を回復させてくれる。 更にこの店は品がよく、なかなかに居心地が良いため杏介のお気に入りだ。杏介が忘れた文庫本を届けてもらったこととプール教室での出来事のおかげで、紗良とも顔見知りから少しレベルアップしたように思う。「ここのラーメン、ほんとやみつきになるんですよ」「ありがとうございます」そんな当たり障りのない会話から始まった二人の雑談。 会話を重ねるうちに、プライベートの少し突っ込んだ話題にも触れる機会が訪れた。「先生は遅くまで働いてるんですね?」「ええ、僕はシフト制なので。大抵土日の遅番は独り身がシフト入れられちゃうんですよねー。あはは」「そうなんですか。私も土日の夜だけここで働いているので。……だからよく会うんですね」「へぇー」壁には常にアルバイト募集の貼り紙がしてある。彼女はアルバイトなんだろうか? この時間、海斗は家で父親と過ごしている?いろいろと気になってしまい聞きたいことはたくさんある杏介だったが、いかんせん人様の家庭を詮索するのはよくない。それくらいは社会人としてわきまえているつもりだ。けれど、紗良が海斗の母親だと判明したとき、杏介はなぜだかショックを受けた。それはもう、ハンマーで殴られたかのような衝撃だった。このラーメン店に通っていたのはただ味が好きなだけではない。仕事終わりに紗良の笑顔を見るのが癒しだったから。(だけどまさか人妻だったとは、な)見た目だけで言えば紗良はまだ若そうに見える。だが実際には四歳の子持ちだ。(人は見かけによらないな)杏介は一人ごちた。だからといって相変わらず紗良が杏介の癒しであることは間違いない。可愛いは正義とはよく言ったもので、彼女が独身であろうが既婚者であろうが、可愛いものは可愛い。別に手を出す訳じゃあるまいし、何で癒されようが自由なはずだ。お気に入りのラーメン店で働く可愛い店員さ
「どうしたの、海斗」「これを見て!」海斗はおもむろにランドセルを背負う。 まだまだピカピカのランドセルを、紗良に見せつけるように体を捻った。「ランドセル?」「そう! ランドセル! 写真撮りたい。リクもさなちゃんも写真撮りにいったんだって」「写真? 写真なら撮ってあげるよ」紗良は自分のスマホのカメラを海斗に向ける。「ちがーう。そうじゃなくてぇ」ジタバタする海斗に紗良は首を傾げる。 咄嗟に杏介が「あれだろ?」と口を挟む。「入学記念に家族の記念写真を撮ったってことだよな?」「そう、それ! 先生わかってるぅー」「ああ~、そういうこと。確かに良いかもね。お風呂で何か盛り上がってるなぁって思ってたけど、そのことだったのね」「そうそう、そうなんだよ。でさ、会社が提携しているフォトスタジオがあるから、予約してみるよ」「うん、ありがとう杏介さん」ニッコリと笑う紗良の頭を、杏介はよしよしと撫でる。 海斗に関することなら反対しないだろうと踏んでいたが、やはりあっさりと了承されて思わず笑みがこぼれた。「?」撫でられて嬉しそうな顔をしながらも、「どうしたの?」と控えめに上目遣いで杏介を見る紗良に、愛おしさが増す。「紗良は今日も可愛い」「き、杏介さんったら」一瞬で頬をピンクに染める紗良。 そんなところもまた可愛くて仕方がない。夫婦がイチャイチャしている横で、海斗はランドセルを背負ったまま「写真! 写真!」と一人でテンション高く踊っていた。
「おーい、二人ともー、いつまで入ってるの?」バスルームの扉がノックされ、紗良のシルエットが映った。 海斗と内緒話をしていたら、ずいぶんと長湯をしてしまったらしい。「今出るとこー」「でるでるー!」ザバッと勢いよく湯船を飛び出す海斗を、杏介は慌てて呼び止める。「海斗、わかってるよな?」「もちろん! 俺にまかせてよ!」二人目配せをしてからようやく湯船から上がった。 全然体を拭けていないまま裸でリビングへ走って行く海斗を見て、杏介は少々不安になる。 と、やはり「早く着替えなさい」と紗良の咎める声が響いてきて、今日も我が家は平和だなと思った。「もー、杏介さんも叱ってよ」「ん? ごめんごめん。海斗~そんなことじゃ海斗のお願い事はきけないぞ」「あー、ごめんなさーい。今着替えてるからちょっと待って」「……お願いごと?」紗良は首を傾げる。 何か欲しいものでもあるのだろうか? 誕生日はまだ先だし、クリスマスもまだまだ先のこと。 学校でなにか情報でも仕入れてきたのだろうか。それならあり得るかもしれない。「紗良姉ちゃん」海斗は紗良のことも相変わらず『紗良姉ちゃん』と呼ぶ。慣れ親しんだ名を変えることは容易ではない。紗良もわかっているから深くは追求しない。
家族になって数ヶ月、いつからだろうか、杏介の帰りが早い日は海斗と一緒にお風呂に入ることが習慣になっていた。男同士、くだらない話題で盛り上がりついつい長湯をしてしまう。「はー、さっぱりするー」海斗が湯船につかって「ごくらくごくらく」と呟く。「極楽って、どこで覚えたんだ? 意味知ってるのか?」「えー? なんかね、リクが言ってたからさ~。ごくらくって良いことって意味でしょ?」「うーん、ちょっと違うけど。あながち間違いではないな」「えー? そうなのー? うーん」海斗は小学一年生。新しい友達も増え、良い言葉も悪い言葉もたくさん覚えてくるようになった。微笑ましく感じることもあれば、きちんと正してやらなくてはいけないこともある。子育てはなかなか難しい。「ところで海斗、相談があるんだけど」「うん、なになにー?」「あのな――」杏介は少し声をひそめる。うんうんと真剣に耳を傾け、海斗は男同士の秘密ごとにはっと口元を押さえた。「先生、それめっちゃいい!」「だろ?」杏介と海斗はグッと親指を立てる。海斗は未だ杏介のことを『先生』と呼ぶ。本当は『お父さん』と呼んでほしいところだが、無理強いをするつもりはない。海斗の気持ちを大事にしたいからだ。
紗良はぐっと体を起こし、先ほどとは反対に杏介を布団に押しつける。 突然のことに驚いた杏介は目を丸くしたが、その後更に驚いた。杏介を見下ろした紗良は片方の髪を耳にかけ、杏介の上に降ってきたのだ。柔らかくあたたかい感触の唇が押しつけられ、杏介の心臓が思わずドキンと跳ねた。 ほんの一瞬だったように思う。「……続きは夜ね」紗良は恥ずかしくなって、バタバタと寝室を出て行く。 小さく呟かれた声はしっかりと杏介の耳に届いて、頭の中で反芻する。 妻のあまりの可愛さに、杏介は布団の中で一人身悶えすることになったのだった。こんな夫婦のイチャイチャなやりとりがされているなか、隣で寝ている海斗はまったく起きない。 まるで空気を読んでいるかのようでありがたいことだ。「……そろそろ海斗、一人で寝てくれないかな」もう小学一年生。 海斗もいずれは一人で寝ることになるだろう。 そうしたら存分に紗良を堪能できるのに……などとやましいことを考えつつ、まだまだ可愛くて手のかかる海斗を起こしにかかった。キッチンからはパンの焼ける良いにおいが漂ってくる。 紗良が朝食の準備を始めたのだ。「海斗~いいかげん起きろ~」何度揺すっても起きない海斗の布団をはぐ。 「まだねる~」とむにゃむにゃ呟く海斗を引きずるように起こし、自分も準備に取りかかる。こんな何気ない日常がなんて幸せなことだろうと、杏介は知らず微笑んだ。 【END】
「き、杏介さんっ。ちょっと……」杏介の甘い視線に気づき、紗良はこの先のことを想像して、焦って左側にいる海斗を確認する。 相変わらず大爆睡の海斗は起きる気配がない。 杏介もそれは気にしたようで視線をチラリと動かすが、すぐに紗良に戻ってくる。「ちょっとだけ」「んっ……」頬に手を添えながら濃密なキスを落とす。 寝ぼけ眼には刺激的なその行為に、一気に目が覚めるような、それでいてまだ眠りの淵にいたいような微睡んだ感覚に溺れそうになった。もう仕事なんて放棄して、このまま二人で過ごしたい。 一日中布団の中でくっついていたい。そんな風に思考が持っていかれたときだ。ピピピッピピピッ枕元に置いていた目覚まし時計が鳴り出し、ハッと我に返る。 杏介を押しのけて目覚まし時計に手を伸ばせば、不満顔の杏介と目が合った。「……だって、起きる時間だもん」紗良は時計の針が見えるように杏介に示す。 杏介と結婚してから、紗良の起きる時間は少しだけ遅くなった。 五時半に起きていたのを六時に変えたのだ。 出勤時間の遅い杏介が、海斗の送り出しや洗濯干しを担ってくれたからだ。「不完全燃焼……」ポツリと呟く杏介に、紗良は困ったように眉を下げる。 紗良とて、起きなくてもいいならこのまま寝ていたい。 杏介といつまでもくっついていたい。
そう思うと、もう、そうとしか思えなくなる。この紗良の異常な行動は照れているからだろうか。だとしたら嬉しすぎてたまらないと杏介の胸は逸る。杏介はイルカのぬいぐるみをそっと抜き取る。と、「あっ」と紗良は声を上げてイルカの行方を追いつつ、杏介とバッチリと目が合った。「おはよう紗良」「……おはよう」それはもうごまかしようのない状況に、紗良は観念してぎこちなく挨拶を返す。杏介にじっと見つめられて、紗良は不自然に目をそらした。「ねえ、さっきのもう一回して」「さ、さ、さ、さっきのって?」「キスしてくれたよね?」「……お、起きてたの?」「んー? それで起きた。夢うつつだったからちゃんとしてほしいなーって」「……」「照れてる紗良も可愛い。毎日紗良のキスで起きたい。一日頑張れそうな気がする」「わっ」ぐいっと腰を引き寄せられて、ひときわ杏介と密着する。こんなこと初めてじゃないのに、いつもちょっと恥ずかしくて、でも嬉しい。杏介の胸に耳を当てれば、トクトクと心臓の音が聞こえる。とても安心する音に紗良は目を閉じた。と、突然体がぐいんと回る感覚に紗良は「わわっ」と声を上げる。横向きで寝ていたのに仰向きにされ、上から杏介が覆い被さってきたのだ。
触れたい――。そう思うのに、いつも自分からは触れられない。 杏介がきてくれるから応えるだけ。 それはそれで嬉しくてたまらないのだけど。 やっぱり自分からも積極的に……と思いつつ結局勇気が出ないまま流れに身を任せている状態。もう恋人じゃない、夫婦なのだから、何となく今までとは違う付き合いになるのではなんて思っていたけれど、まだまだ恋人気分が抜けないでいる。そもそも、恋人期間があったのかどうなのか、微妙なところではあるけれど。紗良はそっと手を伸ばす。 杏介の髪に触れるとさらっと前髪が流れた。少しだけ体を起こして杏介に近づく。 吐息が感じられる距離に心臓をバクバクさせながら、ほんのちょっとだけ唇にキスを落とす。ん……と杏介が身じろいだ気がして紗良は慌てて身を隠した。杏介が目を開けると、目の前にはイルカのぬいぐるみ。いつも紗良が抱きしめて寝ているあれだ。 そのイルカのぬいぐるみに身を隠すようにして紗良が丸まっている。この寝相は新しいなと思いつつ紗良の頭を撫でると、紗良はビクッと体を揺らした。 完全に起きていることがバレるくらいの動じ方だ。「……紗良、起きてるの?」「……起きてません」なぜそこで否定を……と思いつつ、目を覚ます前に感じた唇の感触を思い出して杏介は寝ぼけて回らない頭を無理やり動かした。(あれは夢じゃなくて、もしかしてキスだった?)
微睡みのなか目を開けると、一番に目に飛び込んできた顔に、紗良は一気に目が覚めた。「きっ……」杏介さんと叫びそうになって慌てて口を閉じる。目覚まし時計のアラームはまだ鳴っていない。まだほの暗く静かな部屋の中。杏介と、反対側にいる海斗の規則的な寝息だけがすーすーと聞こえてくる。イルカのぬいぐるみを抱いた紗良は、なぜか杏介に包まれるようにして寝ていたようで、しばし思考が止まる。(……なんで?)というのも、海斗を真ん中に三人で川の字になって寝たはずである。それなのにどういうわけか海斗は紗良の背中側におり(しかも寝相が悪すぎて布団からはみ出ている)、紗良は杏介にぴっとりとくっついている状態。紗良の腰には杏介の腕が巻きついている。要するに、イルカのぬいぐるみを抱いている紗良を杏介が抱いている、という形になるわけだが。(……抱きしめられてる)それを理解した瞬間、紗良の心臓はバックンバックンと騒ぎ出した。結婚して四ヶ月ほど経つというのに、隣に杏介が寝ているというだけでドキドキとしてしまう。間近に見る杏介の寝顔は、男性なのに綺麗で可愛いと感じる。長い睫毛や通った鼻筋、形の良い唇。そのどれもが愛おしく感じて胸が騒ぐ。
◇海斗のプール教室は、いつも弓香さんと一緒に観覧席から見守っている。 全面ガラス張りなのでほとんどすべてが見渡せ、海斗のみならず別のクラスを担当している杏介さんの姿もしっかりと確認できる。「うちも海ちゃんと一緒に同じクラスに上がれてよかったわ」「一緒だとやる気も上がるしいいよね」「でも先生が代わっちゃったのがちょっとなー。どうせなら小野先生がよかったわ」「弓香さん、小野先生推しだもんね」私は杏介さん推しだけど、なんて心の中で唱える。 チラリと視線を海斗から杏介さんに向ければ、逞しい体が目に入った。……急に思い出してしまう。あの日のことを。あの逞しい体に、抱かれたんだよね。 すごくかっこよくて、何度もキスをしてくれて、何度も紗良って名前を呼んでくれて、幸せで胸が張り裂けそうになった。初めてはすっごく痛かったけど、でもそれ以上に、杏介さんとひとつになれたことが嬉しくてたまらなかった。私、こんなにも杏介さんのことを好きで愛していたんだって改めて実感した。「おーい、紗良ちゃん? 紗良ちゃーん」「は、はいっ!」「どした? 推しでも見つけた?」「いや、なんでもないよっ」あまりにも杏介さんのことを見ていたからだろう、弓香さんが不思議そうに首をかしげる。前はプール教室の先生なんて全員同じ顔に見えていたし、推しだなんて考えたこともなかった。 だけど今はもう、全員違う顔に見える。当たり前だけど、杏介さんが一番かっこいい。もうちょっとしたら、弓香さんにもちゃんと報告しよう。 杏介さんと結婚しますって。 そしたら何て言うだろう? 驚くかな?その時のことを考えて、私はまたドキドキと心を揺らした。 【END】